カレブ・ガテニョは1931年、20歳という年齢で、理学(物理化学)学士号を取得、アレクサンドリア(エジプト)のフランス系高等学校(リセ)にて教鞭を執る。 1936年、マルセイユ大学(フランス)にて数学の高等教育免状(D.E.S.)を取得、翌1937年、バーゼル大学(スイス)で数学の博士論文公開審査に臨む。 以後、1945年まで、カイロ(エジプト)の高等科学技術研究所の責任者となる。ついで、リヴァプール大学、ロンドン大学(イギリス)で数学教授として教壇に立ち、 1948年、同大学で文学修士号(教育学)を取得。1952年にはリール大学(フランス)で文学博士号(心理学)を取得する。 1950年から1960年まで、国際数学教育研究・改革委員会の委員長を務める一方で、1952年、イギリス数学教授連合を設立、1961年まで議長を務める。 同連合の活動は現在もまだ続いている。1954年、ガテニョは小学校教諭G・キュイズネールと出会う。キュイズネールは、学習教材として角棒を考案した人物であり、角棒には彼の名がつけられている。 ガテニョは、この角棒を成立させているのが代数的モデルであることに逸速く気づき、このモデルの可能性を追究し、発展させることになる。1957年と1958年、ユネスコ技術顧問としてエチオピアに赴任。 文盲問題を解決しようと色を読ませる識字法を考案。以来、言語習得の問題にも関心を寄せ、1963年、このテーマについて最初の著作を発表。その後も研究を続け、その成果は、 言語を習得させるために彼自身が考案したアプローチ「サイレント・ウェイ」として結実する。
C・ガテニョは1965年、ニューヨークに<Schools for the future>を設立。同校は1968年、研究機関と出版局の機能を兼ねた<Educational Solutions>となる。 1988年7月、パリで没するまで、ガテニョは一時も筆を休めることはなく、また飽くことなく世界中を駈けめぐった。独自の人間観を追究しながら、次々と研究セミナーを行い、多くの人々の理解を得、 その人間観を分かち合おうと努めた。
このように、ガテニョは人間の一般モデルを絶えず追究し続けることにより、「教育の科学」がいかにあるべきか、その真髄を少しずつ明らかにし得たのである。 ガテニョによれば、「習得する」とは、習得すべき未知があることを意識ないしは自覚し、そのように意識する自分を意識することである。 どんな人間活動についても、適確な「意識(自覚)prises de conscience」がおこらなければ、その習得はありえない。習得とはいかなることかということについて考え、 これを記述しようとする場合、記述できる習得の最小単位となるのがこの「意識(自覚)」である。
教師=教育者の果たすべき役割は数多いが、ガテニョの教育理念に従えば、その幾つかはおのずと明らかになる。すなわち、「意識」すべきは何かという観点から教えるテーマを検討すること、 そして必要とされる「意識」を促すのに適した活動を学習者に行わせれることである。ガテニョによって考案された柔軟性豊かな教授法・学習教材はその点で、教師および学習者にとって非常に有意義である。